区の歴史
最終更新日:2016年12月21日
岩室地区
約3000年~約4000年前の縄文中期後半から後期の前半頃に、岩室村の山麓や比較的平坦な丘陵斜面において生活が営まれていたことがうかがえます。その後、弥生時代、古墳時代を経て、山麓部の暮らしから次第に沖積平野へと居住範囲が拡大されてきました。
そして、中世期以降、本村の大部分は荘園時代弥彦の荘に属し、弥彦神社の社領であったのではないかと考えられています。その後、江戸中期以降には旧和納村の大部分は三根山藩の主軸を構成し、旧間瀬村は桑名藩に、旧岩室村は直轄領長岡、与板藩等の数藩に分属していました。
さらに明治以降、大区・小区の制度が廃止され、現在の町村自治体の基盤ができた明治22年に、石瀬、岩室、船越、和納、鴻ノ巣、間瀬の6か村が誕生、その後明治34年には石瀬、船越、岩室の3か村が岩室村を、和納、鴻ノ巣の2か村が和納村を形成しました。そして、昭和の時代となり、昭和30年に町村合併促進法により、岩室村、間瀬村が対等合併し岩室村を形成、その後、幾多の経緯をへて昭和35年に、岩室村、和納村による対等合併が成立し、岩室村が誕生し平成17年3月新潟市と合併しました。
西川地区
浦田遺跡から古墳文化時代後期の遺跡が出土され、およそ1,400年前には稲作や狩猟をし、生活していた形跡があります。また、西川流域以東には十世紀以前の住居跡などの遺跡が数多く発見されており、遺跡の所在の特徴として、西川右岸の自然堤防上を占地するものと、鎧潟の北方の低平な水田地帯を占地するものに大別されることから、西川流域と鎧潟を中心とした地域に集落をつくり、生活していたと思われます。町制に関する地名が初めて登場するのは、寛正4(1463)年の山城国嵯峨の持地院が上田御局にあてた文書に「曽祢村」の文字が登場します。
曽根村は京都府の持地院の領地であったと考えられ、元和4(1618)年から長岡藩の領地で蒲原組に属していました。その後、曽根組が設置され代官所が置かれました。
曽根代官所は長岡藩の穀倉地帯の要として、また、長岡藩の六か組の一つの曽根組を支配するために、南は粟生津、北は新潟村、西は岩室、東は漆山、五ノ上までの近隣77か村の行政、司法、徴税を司るため、現在の曽根小学校地内に、慶応4(1868)年までの約250年間設置されていました。発祥当時の曽根村は、西川右岸の自然堤防上に出来た村落であり、西川の水運を重要な交通手段として生活を営んでいました。
明治22年には、全国的な市制・町村制施行と同時に、それぞれの地域に33あった村が、鎧郷村・西川村・曽根村・升潟村の4村に合併しました。さらに、明治34年11月には、鎧郷村と西川村が合併し鎧郷村となり、昭和5年12月に曽根村が町制施行で曽根町となりました。昭和30年3月には曽根町と鎧郷村が合併し、西川町(にしがわまち)。その後、西川町と升潟村が合併し、西川町(にしかわまち)となり、平成17年3月新潟市と合併しました。
潟東地区
潟東地区は太古の昔、海であったと想像され、信濃川及びそれらの分流によって沖積陸地になってからも沼沢地帯では一面の芦原をなしていたと推定されますが、昭和30年の土地改良耕地整理工事の際に発見された樋切遺跡から須恵器、土師器の陶片が出土したことから弥生時代後期には人々が住んでいたと思われます。
潟東地区の基となる四ツ合村は中世紀以降、荘園・弥彦荘に属し、旧幕時代は各藩が交錯して統治していました。また大原村は比較的新しく、旧幕時代は小村に分立し、明治34年の町村廃合により大原村となりましたが、その沿革は一様ではありませんでした。その後、昭和30年に西蒲原の中央であった「鎧潟」を名残として、その東部に位置することの故を以って四ツ合村と大原村が合併して潟東村となり、平成17年3月新潟市と合併しました。
中之口地区
村落の起源については、早い集落で鎌倉から室町時代と推定され、洪水の恐怖に脅かされながら半農半漁の生活が営われたであろうと言われていますが、中ノロ川の築堤により川筋が固定することで地域の開発も進みました。地域の開発には開発郷士の活躍が著しく、戦国時代の終わりに信州や越中より武士や浄土真宗の門徒が入植したことが伝えられており、寺院の形成とともに現在と同様の地域集落が形成されました。中でも澤将監は武田家の家臣でしたが上杉氏をたより、この地に定着し打越地区の開発を行い、約130年余りで現在の集落と同様の地域を形成したことにより、代々大庄屋として処遇されています。中之口村では当時の門や邸宅を復元し開放しており、先達の偉業を称えた先人館と共に多くの観光客で賑わっています。
江戸時代になると、当地域も幕藩体制の中に組み込まれ、三条藩、村上藩、高崎藩、直轄領(天領)、新発田藩と次々と領地の交代が行われています。その頃は新田開発が奨励されており、新開地が次々と現れ水利の問題が続出します。水との戦いがこの地域の歴史であったともいえます。集落については現在の1集落が1村として分村独立していましたが、村の東地区では明治22年に7ヶ村が合併し小吉村を設立、西地区においても同様に道上村、打越村、三針村が誕生、燕市寄りの地域では3村の合併により加奈居村が設立されています。その後明治34年に三針村が小吉村と道上村に合併し、打越村と道上村が合併、加奈居村は松長村と合併しています。また、昭和の大合併になると一度は燕市となった松長村の一部と道上村、小吉村が合併し中之口村となり、平成17年3月新潟市と合併しました。
巻地区
巻地区の歴史は古く、県内最古の古墳である山谷古墳をはじめ数多くの遺跡が角田山麓の丘陵地帯などから発見されています。なかでも古墳時代前期に造営された菖蒲塚古墳は、前方後円墳として著名で第一級の宝器であるだ龍鏡が出土するなど、大和政権と結びついた地方首長の墓と考えられています。
「巻」の地名がいつごろから使われたのか定かではありませんが、古くは槙・真木と書かれ、アイヌ語のマク(山手・奥・後ろ)や牧(牧場)の当て字、さらには信濃川の洪水のうず「巻」く地などが地名の由来とされています。
中心地の巻は、近世には長岡藩巻組の中心地として同藩の代官所が置かれ、近傍の村々を支配していました。また角田山麓の三根山(現峰岡)周辺の村々は、牧野家三根山領となり、幕末には三根山藩領として統治され明治を迎えました。
明治12年、郡区町村編成法により西蒲原郡巻村となり郡役所が置かれました。明治22年の町村制施行により巻村周辺(現巻町域)の村々は13に再編されました。明治24年には巻村が町制を施行し、さらに明治34年に施行された町村合併で巻町周辺の村々は5つに再編されました。
昭和30年1月1日、町村合併促進法により巻町・漆山村・峰岡村・松野尾村・角田村・浦浜村の1町5村が合併、新生「巻町」が発足し、その後、同年7月10日、西川町の一部(中郷屋・葉萱場・割前・羽田・東汰上)を、昭和35年4月1日には岩室村の一部(安尻・下和納)を編入し、巻町となり、平成17年10月新潟市と合併しました。
西蒲区役所 代表番号
電話:0256-73-1000
FAX:0256-72-6022