区の歴史【中地区】
最終更新日:2012年6月1日
合併の歴史
当地区は旧沼垂町の一部、旧大形村、旧松ケ崎浜村の一部、旧石山村の一部によって構成されています。旧沼垂町は1914年(大正3年)、旧大形村と旧石山村は1943年(昭和18年)、旧松ケ崎浜村は1954年(昭和29年)にそれぞれ新潟市と合併しました。
工場地帯の伸展
明治時代の後期に新潟鉄工所が山の下に工場をつくり、石油採掘用の機械や工作機械、車両製造などを始めました。以降、大正期にかけて中小の工場も設立され、多数の労働者を抱える工業のまちとして発展し、1929年(昭和4年)、市の都市計画で山の下が工場地帯に指定されたことにより、工場建設が加速していきました。
住宅地の造成
1929年(昭和4年)から市で最初の土地区画整理事業が実施されたことにより、現在の中地区の西側で宅地開発が進みました。昭和20年代には従来よりもさらに東側にあたる赤道付近にかけて公営住宅などが数多く建設されました。
新潟地震以降の昭和40年代からはさらに東側へと宅地化が伸展し、かつての砂丘地も住宅地へと姿を変えていきました。
明治時代以降、市の工業地帯として発展してきた中地区ですが、現在は大規模工場の撤退や縮小などが見られ、その土地の多くは住宅地に生まれ変わっています。
新潟港
山の下地区では、1925年(大正14年)、新潟臨港株式会社(現(株)リンコーコーポレーション)が難工事の末、臨港埠頭と臨港鉄道を完成させました。全国でもまれな民間企業によって造られたこの埠頭は新潟港の一部として新潟の経済を支える重要な役割を担ってきています。一方、県営の山の下埠頭は現在、定期航路として新日本海フェリーが新潟と敦賀、秋田、小樽、苫小牧を結んでいます。そのほか貨物船や豪華客船も入港しています。
新潟空港
1930年(昭和5年)、市営飛行場として一番機を迎え入れました。本格的に旅客輸送が開始されたのは、1936年(昭和11年)のことで、新潟~東京間を約2時間で結んでいました。以後、国内各地、さらには、国外へと路線を広げ、2010年(平成22年)4月現在、国際線7路線、国内線7路線を擁し、年間約100万人の乗降客が利用しています。