市報にいがた 令和4年2月6日 2760号 5面
最終更新日:2022年2月6日
みなとまち新潟 歴史探訪(54)
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通船川の歴史
阿賀野川は江戸時代半ばまで、現在の通船川とほぼ同じ流路を通って信濃川河口にある新潟湊(みなと)に流れ込んでいました。
享保15年(1730年)、紫雲寺潟(塩津潟)などの新田開発を目的とした放水路「松ケ崎堀割(ほりわり)」が阿賀野川下流に完成しました。これは元々川の増水分だけを海へ流すものでしたが、翌年の雪解け水で堀割が決壊したことで本流が変わり、現在の阿賀野川の流路が形成されました。これ以降、新潟湊の水量を増やすための工事が実施されましたが失敗が続き、元の阿賀野川の流路は狭くなって通船に支障が出るようになりました。
宝暦9年(1759年)、本所村(東区)から海老ケ瀬新田(同)にかけて本所通船川が新たに開削されましたが、すぐに砂で埋まってしまいました。そのため、安永2年(1773年)に元の阿賀野川の流路を生かした川の掘り替え工事が行われました。これが現在の通船川です。
信濃川と阿賀野川を結ぶ通船川には船が行き交い、明治期には蒸気船が運航しました。その後周辺が工場地帯として発展すると、通船川は原材料や製品の輸送路としての役割を担いました。
安永2年(1773年) 通船路出来形絵図(新潟市歴史博物館所蔵)
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