受賞者
第4回安吾賞
渡辺謙 俳優
渡辺謙、俳優。生まれ育った雪深い故郷の環境が、今、役立っているという。18歳で故郷を後にしてから漂泊のときもあった、病も壁もあった。
それらを乗り越えてきたのは、「負」に耐える力だっただろうか、それとも「負」を受け入れる柔軟さだったろうか。
おそらくその両方だったのだろう。伏してのち立ち上がる。
豪雪という魔物と闘う越後人の生き方にも似ている。
崖っぷちでのぎりぎりの選択はすなわち転機でもあるということを彼の生き方が教えてくれる。
追い詰められたときにこそ一歩先に希望を探し出す視線の強さが、ハリウッドの扉を開ける鍵となった。
その眼差しは安吾とよく似ている。
渡辺謙さん受賞コメント
自己を育んでくれた土地の有難味
大変名誉ある賞を頂くこと嬉しく思っております。
これまで様々な役に取り組んでまいりましたが自分が生まれ育った越後という環境が大変役に立っております。
自己を育んでくれた土地の有難味を、とみに実感している次第です。
その故郷から誉めて頂けたこと、本当に嬉しく思っております。
ありがとうございます。
(授賞式に先立ち新潟市内の資料館「安吾・風の館」に立ち寄った渡辺さん 撮影 : 坂口綱男)
第4回新潟市特別賞
野坂昭如 作家
蛍の焔を裡に抱き焦土を越えて暗愚(安吾)の布団を敷く少年は、愛を表明する大人となった。戯作の衣を纏いながら勁く人を愛し日本を愛し、ときに時代に喝を入れ、時の権力に拳を振るい、破れることを厭わぬ姿に勇気を見る。その正義感、その精神力は安吾に引けをとらない。
(写真 : 荒木経惟)
野坂昭如さん受賞コメント
安吾さんはデカかった
十八才の秋、安吾の布団を敷いた。ぼくが新潟の実父に引き取られて一年が経った頃の話。当時珍しくもないが、ぼくは生後すぐ、神戸に養子に出された。養父は石油関連の仕事、今でいう商社マン。当時の各家庭を知らないが、養家は配給生活の中で珍しく空襲直前まで毎日白いご飯、時にカニタマ、ハムなどが食卓に並び裕福な生活だった。小学校五年の春、学校に提出する書類から、自分の生い立ちに気付き、だが何一つ不自由ない暮らしぶり。むろん実家については知る由もなく、きっと貧しい環境でぼくを手放したのだろうと考えていた。
何より、養父にかわいがられ、お洒落で教養の高い彼はぼくにとって憧れの人だった。血の繋がりのないことを知らんぷりで通し、実家に帰されないよう、つとめていい子ぶった。
昭和二十年六月五日、神戸大空襲ですべて破壊された。養父は亡くなり一家は離散。食うや食わずで焼け跡を彷徨ううち、妹はぼくの手の中で飢え死した。
ぼくは一人流浪の日々。あげくある日突然、実父が目の前に現われ、ぼくは引き取られることになった。父は新潟県の副知事だった。ぼくは一夜にして、浮浪児から副知事の息子へ変身。初めて見る実父、「よう、どうしたい」、父がぼくの肩に手をかけた。ぼくは大声で泣きじゃくった。
初めての新潟、生活は一変した。父の仕事柄、いろんな客人の接待を引き受ける。ぼくは新潟高校へ通いながらこれを手伝った。といっても年中、お辞儀をしては布団を敷くぐらい。敗戦後、焼け跡で腹を減らしながらも、本を乱読していた。他に楽しみなど無かったのだ。小学校一年から戦争が始まり、学校の授業といえば中学一年まで。以後、勤労奉仕に明け暮れ、そして空襲。焼跡整理。ぼくはほとんど授業らしい授業は受けていない。本は手に入るまま、まさに何でもむさぼるように読んだ。焼け跡の読書は血肉と化した。なかに、堕落論があった。こっちは十四歳ですべて失い、呆然とするばかりの日々。安吾の言葉に気が楽になった。人間の真実にふれた思いがした。
父の関係からか、安吾さんは講演会のついでに、公舎に一泊なさったのだろう。当時は近辺に旅館もなかった。安吾さんは何も喋らず、ぼくは黙って布団を敷くだけ。終わって会釈、部屋を出た。初めて目にした坂口安吾はデカかった。ぼくにとって最初の小説家体験。
安吾賞・新潟市特別賞というありがたい賞を戴けるにあたって、老いたる体を励ましつつ、反骨の気持ちをふるい立たせている。
いっぺん、安吾と飲みたかった。
(写真 : 荒木経惟)