受賞者
第2回安吾賞
野口健 アルピニスト
高校の停学中に出会った故・植村直己の著書『青春を山に賭けて』が、落ちこぼれて社会との壁に突き当たり苦悩していた少年野口健を「夢」に駆り立てた。
「そうだ! 自分を取り戻すために山に登ろう!」
全くの登山初心者だった野口少年が、旧ヨーロッパ大陸の最高峰モンブランに登頂したのはわずか16才だったと言う。
「7大陸の最高峰を最年少で登頂する」。そのとてつもない夢に向かって疾走するも、既成概念の壁、売名行為だという中傷、自身の甘さから生じる挫折と葛藤を幾度も味わい、その度に這い上がっていく生き様こそが前人未到と言って良い。
25才で7大陸最高峰を制覇した後も、エベレストや富士山の「清掃登山」の決行、「シェルパ基金」の設立や「環境学校」の開校など、現在も険しい挑戦者の道を歩き続けている。
その突破力は極めて安吾的であり、その破天荒な生き様には安吾も舌を巻くに違いない。
野口健さんコメント
「反逆者」「無頼派」「反権威」。新潟市出身の作家・坂口安吾を評する言葉は様々だ。神経衰弱になりつつも創作を続け、自身すらも壊しかねないような尖った感性で、時代や人間の本質を描いた安吾。その言葉は時代を超えてなお人々の心を揺さぶり、感動を与える。
昨年、生誕100年を記念して創設されたこの安吾賞は文学賞ではなく「安吾的な生き方」に対して送られる賞だと聞いた。安吾的な生き方とはどのようなものなのだろうか。それは私の解釈だと「既存の価値観や旧弊にとらわれず、社会に警鐘を鳴らし、自らを生ききったもの」という風に思っている。
それでは私自身がそういった生き方をしてきたかというと、正直なところ自分ではよくわからない。何故なら私はそのように生きてこようという意思は別になかったからだ。
そもそも安吾は意図的にあのような波乱に満ちた生涯を送ったのだろうか。私はそれは違うと思う。安吾はただそのようにしか生きる事ができなかったのではないか。神経衰弱になりながらも、人間や社会を穴が開くほど見つめ、ペンをとり、書き続けることでしか自己の生命を維持する事ができなかったのでないかと思う。
エベレストをはじめて訪れたとき、ゴミの多さに驚いた。様々な国のゴミがあったが、日本語が書かれているものが実に多かった。ヨーロッパのある登山家が散乱する日本のゴミを指差し「日本は経済は一流だけど、マナーは三流だ」と言った。
実際には一部の日本の登山家が捨てたゴミなのだが、日本という国自体を侮辱された事が許せなかった。またエベレストでの清掃開始後は、日本の山岳界の一部の方々からもご批判を受けた。要するに「黙っていろ」ということだった。
2000年から4年連続で行ったエベレスト清掃登山で結果として3人のシェルパ(ネパールの山岳民族。登山隊のサポートを主な生業とする)が命を落としてしまった。私自身も入退院を繰り返した。親や友人から「ゴミ拾いで命を落としてどうする」と何度も注意を受けたが、私はやめるつもりなど毛頭なかった。
今、思えばあのときの自分が何故、活動を続けられたのか。わかるようでわからない。振り返れば、そもそも高校を停学になって山に出会い、今に至るまで何故、自分は山に登り続けているのだろうかということもわからない。また日本の象徴である富士山で清掃活動を開始して約8年。最初は年間で100名たらずの参加者が今では年間6000名を超えるまでになり、一種の社会的なムーブメントにまで発展した。でも私は何故、この活動を続けているのだろうか。
それぞれの活動の動機に理由をつけることはできる。エベレスト清掃は日本を侮辱したヨーロッパの登山家と日本の一部の山岳関係者に対する怒りがそうさせたとも言えなくもない。登山は高校時代、落ちこぼれだった自分が何かで人に認められたいという欲求の表れだったのかも知れない。富士山の清掃は、不法投棄を繰り返す犯罪者たちへの怒りと言えなくもない。
でも正直、私はそれらの理由に真の意味での本当のものを感じない。人間がある行為をはじめ、それを維持していく理由はもっと混然としていて一言で捉えきれるものではないと思う。何が私をそうさせるのか。それはわかるようでわからないのだ。
ただ一つだけわかることは、抽象的になるが、常に私の中には、ある乾いた穴のようなものがあることだ。そして私はその穴を埋めようとする自分を抑える事ができない。その穴を埋める行為こそが私の活動であり、人生であるといえる。つきつめて考えると、結局、こういう風にしか生きる事ができないということになる。
私は人生とは己を表現する、自己表現の舞台だと思っている。私はただ生きてきた。ひたすらに生きてきた。それが今までの自分の全てだと思う。
今回、結果として私の生き様がこのような形で評価されることに喜びを感じています。今後もこの賞に恥じることのないよう生きていきたいと思います。ありがとうございました。
野口健オフィシャルサイト
http://www.noguchi-ken.com/
第2回新潟市特別賞
カール・ベンクス 建築デザイナー
ベルリン生まれのカール・ベンクスさんが、築180年の古民家を再生して新潟県十日町市(旧東頸城郡松代町)に移り住んだのは1993年のこと。
打ち捨てられ朽ちて行く古民家の中に、カールさんは自然環境に寄り添うような生活の知恵と、日本の職人たちの高度な技とを発見し、「古い民家を壊すことは、宝石を捨てて砂利を拾っている」と警鐘を鳴らしてきた。古い民家をいつくしみ残していくことは、文化を伝えると同時に世界に誇る職人の技術を伝えることでもある。
遥か9000kmのかなたの国、ドイツからやってきたカール・ベンクスさんのマイスター魂が、忘れかけていた日本文化の再発見に導いてくれた。
自ら新潟に居を構え、たくさんのメッセージを発信し続ける生き方に敬意を表し、また、今後の活動に期待を込めて新潟市特別賞を贈りたい。
カール・ベンクスさんコメント
受賞の話をいただき、とても光栄な事と感謝しています。
子供の頃から興味があった日本の文化・建築、その日本で認めていただけた事は本当に嬉しいかぎりです。
四十年前に日本に来たころは汽車の窓から茅葺屋根の古い民家がまだ沢山残っていました、今は汽車の窓から見てもみんな同じ形の住宅ばかり、土地ごとの特徴もありません、日本の素晴しい文化がどんどん失われていくようで大変残念に思います、昔の建物は一般的な家でもいい材料を使っています。二百年前に建てられた家をみると、その家を作った職人さんたちについての様々な情報を読み取ることができます。古い家が姿を消すのは、其の中に宿っていた精神や文化も捨てることになります。日本建築を世界に広めたブルーノ・タウトは「日本の設計士達は幸せのはず・・・なぜなら世界には無い技術をもっている職人がいる」七十年以上前から日本の建築技術は世界に高く評価されています。
今では、家も使い捨てという考えがあって二十〜三十年で建てかえようとする、お金もかかり、ゴミもでます、《古い家のない町は、思い出の無い人間と同じ》という東山魁夷の言葉がありますが、素晴しい文化・技術や材料がこのままなくなってしまうのは悲しい、新しいものを作る必要はあるにしても伝統的なものを残すことも大切です。私は文化財や博物館ではない一般的な古民家を大事にしたい。
古い建物は、子供のように面倒を見なければなりません、生き物を扱うようにその建物を愛し、可愛がらなければ建物は生まれ変わりません、家を再生する事は哲学を持つ事です。私の仕事は古民家の再生です、ただの修理ではなく、宝石の原石を磨くような仕事なのです。
一度失ったら二度と戻ってこない日本の文化・技術・芸術を後世に伝えられるのは「今が最後」だと思います。
古民家の再生を通しそれらを後世に残せるように、そして1人でも多くの方に関心を持ってもらえるようにこれからも頑張り続けたい。
カール・ベンクス&アソシエイト オフィシャルサイト
http://www.k-bengs.com/